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JAPANOLOGY  OF  CHINA

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《水滸伝の文化誌》

王 勇

 

第十六回 武松の墓を再訪して

一、水滸ブーム

 臨安こと今の杭州は南宋時代に都を置かれ、朝廷に帰順して 方臘 ( ほうろう ) らを討伐する水滸英雄の重要な舞台となっていた。百戦錬磨を経た多くの好漢は、この地で悲壮な最期を遂げたのである。講釈や小説などに語られた水滸英雄は架空の人物だったにもかかわらず、杭州の市民たちに勇気と感動とを与えつづけてきた。

ここ数年、郷鎮企業をはじめ、経済の高度成長によって繁栄しつつある杭州は、あたかも古都の郷愁に誘われたかのように、岳飛の廟・林和靖の墓・胡雪岩の旧居・章太炎の記念館など、歴史人物に関する遺跡の新築・改修工事に拍車をかけている。こうした懐古的ブームに便乗して、地元とゆかりの深い架空人物にも熱い目線を注がれるようになった。

『水滸伝』関係に限っていえば、大逆流で知られる銭塘江のほとりに聳え立つ六和塔の下に魯智深の彫像が立てられ、「浪裏白條」のあだ名を持つ張順の塑像もいつの間にか、その終焉の地となった湧金門の周辺に現われた。

また、梁山好漢百八名のうち、後ろから二番目につけられた時遷まで、しばしば話題にのぼったりする。鼓上蚤とあだ名される時遷は、むかし杭州の乞食らに祖師と崇められ、清泰門の外に時遷廟を作られたことがあるからだ。

もっとも話題を賑わしたのは、ほかならぬ武松の墓である。二〇〇四年九月に、武松の墓を新築する作業が始まったと聞き、筆者は急いで工事現場へ足を運んだ。

二、武松の新墓

 新聞によれば、二〇〇四年五月、王水福ら省議員二人は武松の墓を再建するよう杭州市政府に建言した。それがマスコミに報道されると、予想外の反響を呼んだ。六月に再建案三つが公示され、連日千人もの市民が会場にかけつけ、賛意を表明するとともに、貴重な資料を提供して再建の助けとした。

その中で、世論を沸かしたのは、一九二〇年代つまり武松の旧墓が建造された当初の姿をカメラに収めた鮮明な写真一枚である。この写真によって、三つの再建案はすべて破棄され、旧墓をそのまま復元する案に切り替わった。

九月七日、筆者は北宋期の有名な隠者、「梅を妻とし、鶴を子とする」林和靖が葬られた孤山を超えて、西泠橋を渡りきると、思わず眼前の風景に目を瞠った。武松の旧墓があったと思われる芝生に、三メートルほどの石碑が堂々と立っているからだ。石碑の上部(碑額)には蟠龍宝珠の浮き彫りが施されているが、碑体の題字はまだ刻まれていない。

石碑の後ろには饅頭形の円墳も約八割まで出来上がっている。周囲の地面には上質の青石が大小を交えて十八枚ほど置かれている。作業員に聞くと、これらは牌坊(鳥居)を組み立てるために、福建の蒲田から特注したものであるという。

三、新たな資料

 本連載の六回目「武松の墓を訪ねて」において、武松の墓が造られた経緯を紹介した。つまり、清代の文献『埋憂集』と『 湖壖雑記 ( こぜんざっき ) 』に、杭州で「武松之墓」と刻んだ石碑が掘り出されたとの記録があり、民国期に青紅帮の頭領 杜月笙 ( とげつしょう ) は西泠橋の傍に武松の墓を造り、「宋義士武松之墓」を刻んだ石碑を立てた。

今回の新墓再建騒ぎの中で、これまでに知らなかった資料が出てきた。これらは、武松の墓はいつ造られ、最初はどこにあったかを明らかにする手がかりをいくらか与えてくれたのである。

胡祥翰の著わした『西湖新志』(巻九)は『湖壖雑記』を引いて、「清の初めに江滸の人は進滝浦の地下から武松之墓と題する石碣を掘り出したという。それが本当であれば、墓は銭塘江の畔にあったはずだが、(西泠橋の傍にあるのは)何故か」と述べる。『西湖新志』は一九二一年に上海胡氏から初刊されたので、それより前に武松の墓がすでに西泠橋の傍にあったわけである。

白雲居士の編んだ『游杭快覧』は「宋義士武松墓」の項目を立て、「西泠橋の西にあり、以前は荒塚だったのが、つい最近修理を終えた。傍らに女侠秋瑾の墓があり、墓の前に風雨亭がある」と記している。このガイドブックは一九三六年に浙江正楷印書館より上梓したので、この時点で墓の整備修理を行なったことがわかる。

 著名な美術家である姜丹書氏は日中戦争時に友人の呉剣飛から伺った逸話をその回顧録に書きとめた。つまり、呉氏は九歳の時(一八九二年)、父に連れられて湧金門の喫茶店「三雅園」に行く途中、城壁の補強工事をしていた作業員が棺おけを掘り出したのを目撃した。和頭(棺おけの正面)に「武松之柩」の題字が陽刻され、文字は宋体、大きさは六寸四方、金箔が貼られているという。しかし『埋憂集』と『湖壖雑記』はそれより前に刊行されているから、呉氏の見聞に信憑性があるとは限らない。

四、武松異聞

 杭州の人気新聞「都市快報」は民国期の『杭州全書』なる書物を引用して、武松の逸話を伝えている。つまり「宋義士武松墓」の項によれば、武松は湧金門の外で武芸を披露していたところ、知州(杭州の行政長官)の高権に気に入られ、提轄にまで抜擢した。その後、蔡京の息子が後任につくと、父の虎威を仮りては民を苦しめた。武松は奮起として一人で暗殺を敢行したが、ついに捕まえられて獄死した。杭州の市民はその徳に感銘を受け、財物を出しあって、西泠橋のほとりに墓を造ったという。

 『水滸伝』第百十九回「魯智深は浙江に坐化し、宋公明は衣錦して郷に還る」には「武松これより六和寺に出家して、のち八十に至って善終す」と記してある。しかし、筆者は子供の時から聞いた話では、湧金門の水城を攻めるとき、両腕を失った武松は杭州を放浪中、宿敵に遭遇して両足を切り取られ、「瓢箪人間」となり、西湖に身を投げて命を絶ったそうである。また一説では、四肢を失った武松は魯智深の手を借りて、惨めな生涯を閉じたとも言われる。『水滸伝』とは逆に、武松は魯智深より先に逝ったことになる。

五、古風と今様

 西泠橋の西端にあった武松の墓は、一九六五年四月ごろ撤去され、鶏篭山に移された。運送にあたった朱家昌氏は八十三歳になったにもかかわらず、当時の様子を鮮やかに覚えている。彼の証言では、棺おけに骸骨が散らばっていたという。

さて、二〇〇四年九月十九日に新築した武松の墓はしかと西泠橋の西に座を占めるようになった。約十メートルの羨道を通りぬけると、立派な牌坊があり、横には「嶔崎瑰偉」の題額、両側には「失意且伍豪客」と「得時亦一英公」の対聯、いずれも旧墓のままを復元している。

しかし、魔よけとして墓に納入するものは、まず鉄函に入れて、さらにそれを石函に収めている。その中身は、墓の由来と新築の縁起を物語る印鑑とCD、それに『普庵呪経』の写本であって、古風と今様とが混ざっている。


 ★ 日本文化研究所(中国・杭州市教工路198号 浙江工商大学) ★

 

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